「尽十方世界はこれ一顆の明珠である。」「「この尽十方世界はこれ一顆の明珠である。」という表現は、玄沙のはじめて吐いたことばである。その大旨は尽十方世界とは、広大にもあらず、微少というにもあらず、まるい四角いというにもあらず、中正なりというにもあらず、活潑々地というにもあらず、炯々として明らかというにもあらず。あるいは、生死にもあらず去来にもあらぬがゆえに、生死・去来である。そのゆえに、昨日は去り今日は来る。つまるところ、あれだこれだと見ることもできないし、あれだこれだと挙げて謂うこともできない。つまるところ、尽十方というは、客体を追うて主体とし、主体を追うて客体とない、その尽くるところを知らぬのでる。情が生ずれば智は遠ざかる。これを「隔」と表現する。頭をめぐらして面をかえる。その時、事を 展べ、機に投ずるのである。主体を追うて客体となすがゆえに、尽くるところを知らぬ尽十方なのである。いまだ機の発せざる前の道理をうれば、機のかなめを支配するにあまりあるのである。」(道元:正法眼蔵・一顆明珠)

原文「いま道取する尽十方世界。是一顆明珠、はじめて玄沙にあり。その宗旨は、尽十方世界は、広大にあらず、微小にあらず。方円にあらず、中正にあらず。活潑潑にあらず、露廻廻にあらず。さらに生死去来にあらざるゆゑに生死去来なり。恁麼ゆゑに、昔日曽此去にして而今従此来なり。究弁するに、たれか片片なりと見徹するあらん、たれか兀兀なりと検挙するあらん。尽 十方といふは、逐己為物、逐己生為物未休なり。情生智隔を隔と道取する。これ回頭換面なり、展事投機なり。みなる尽十方なり。機先の道理なるゆゑに、機要の管得にあまれることあり。逐己為物のゆゑに、未休なる尽十方なり。機先の道理なるゆゑに、機先の管」得あまれることあり。」心のまさに動かんととするに先じて事を点展示

昔日曽此去:昔日かってここを去り、而今ここよりくるとよむ。生死去来のすがたを叙することば。兀兀+兀はあやうし。つとめて休まないさまをいう。逐己為物、逐己生為物:物を逐うて己となし、己を逐うて物となす、とよむ。物は客体であり、己は主体である。何処まで行っても止まらない。情生智隔:情生ずれば、智へだたる。感情がその役割を営みはじめると智が遠ざかるからである。心のまさに動かんととするに先じて事を展ぶれば、機に投ずるとをうるという。