「外道セーニヤの所説」「それが外道のたぐいだというのはこうである。西の方インドにセーニヤ(先尼)という外道があった。彼は説いていった。ー大道はわれらのこの現身にある。そのありようはたやすく判るであろう。われらは苦と楽とを分別することができる。冷と煖とをおのずからして知り、痛いかゆいをも欲無始っている。何者にもさまたげられず、何者にもかかずらわぬ。存在は古来し、対象は生滅するけれども、霊知は常恒にしてかわることがない。この霊知はあまねくして、凡夫と聖者を択ばず、一切の衆生を隔てることがない。なかには、しばし虚妄のことに迷うこともあろうが、一たび真実の智慧にぴたりと帰するにいたれば、存在もなく対象も滅して、ただ本性の霊知のみが瞭然としてとこしなえに存するにいたる。たといこの身は死んでも霊知は死せずしてこの身を出ずる。たとへば、家は焼けても、その家主はいで去るがごとくである。この昭々としてあきらかに、霊妙にして不思議なるもの、それが覚者・知者の本性というもの。これを仏といい、悟りとも称する。(道元:正法眼蔵・即心是仏)

原文「外道のふたぐひなるといふは、西天竺に外道あり。先尼となずく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり。そのていらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる、苦楽をわきまへ、冷煖を自知し、痛痒を了知す。万物にさへられず、諸境にかかはれず、物は去来し、境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。この霊知はひろく周遍せり、凡聖含霊の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空華ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了了として鎮常なり。たとひ身相はやぶれぬれども,霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭昭霊霊としてある、これを覚者智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称す。」