「仏祖正伝の即心是仏」仏は百草である。それを摘みきたり、また捨てる。だが、それが丈六の金神だというのではない。即は公案である。だがその理解をもまたず、その失敗をも避けない。是は三界である。だが、そこを出ずるにもあらず、唯心というにもあらぬ。心は牆壁である。だが土を捏ねるにもあらず、形を造るでもない。ただ即心是仏と究明し、心即仏是と究めいたり、あるいは仏即是心とかくのごとく訊ねいたり、即心是仏と問いいたり、また是仏心即と参究するのである。かくのごとく究め到るのが、まさしき即心是仏であっ、そのことごとくを挙げ、それを即心是仏の句こめて正伝するのであり、そのように正伝して今日にいたっておる。」(道元:正法眼蔵・即心是仏)

原文「仏百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども、丈六の金神に説似せず。即公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。あるいは即心是仏を参究し、心即仏是を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し、是仏心即を参究す。かくのごとくの参究まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり、かくのごとく正伝して今日にいたり。」

「仏百草云々:仏を語るのに百草をもってし、即を語るに公案をもってし、是を説くに三界をもってし、心を説くに牆壁をもってしている。即ち物をきなれ対象をはなれて、仏もなく心喪ないのである。つまり、一切の法(存在)に即して一心ががあるのであり、一心に即して一切の法があるのである。正伝しきたる心というのは、一心一切法であり一切法一心ととかれるのである。」