「一心一切法、一切法一心」そこにいうところの正伝しきたれる心とは一心一切法、一切法一心である。だから古人はいっておる。「もし人が心を識りうれば、大地には寸土もない」つまり、心のなんたるかを知りえた時には、この世を覆う天も落ち、大地もことごとく裂け破れる。あるいは、その時、大地はさらに厚さ三寸を増すといってもよい。また古徳はいう。「妙淨明心とはいったい何か。山河大地であり、日月星辰である」それによっても、心とは、山河大地であり、日月星辰であると、明らかに知られる。だがその表現は、一歩をすすめれば不足があり、一歩を退けば余りがあろう。山河大地なりという心は、ただ山河大地なるのみである。べつに波浪もなく、風煙もないのである。日月星辰であるという心は、ただ日月星辰なるのみである。さらに霧があるでもなく、霞がかかっているのでもない。生死去来の心はただ生死去来のみであって、べつに迷いもなく悟りない。牆壁瓦礫の心はただ牆壁瓦礫であって、さらに泥もなければ水もない。四大・五蘊の心はただ四大・五蘊にして、ほかに意馬も心猿もあるわけではない。あるいは椅子払子の心は椅子払子のみであって、ほかに竹があり木があるわけではない。(道元:正法眼蔵・即心是仏)
原文「いはゆる正伝しきたれる心とは、一心一切法、一切法一心なり。このゆゑに古人いはく、「若人識る