「一心一切法、一切法一心」「かくのごとくである故に、即心是仏とは世の常情に染まぬ是仏であり、諸仏とは人の煩悩に汚れぬ諸仏である。詮ずるところ、即心是仏とは、発心・修行・正覚・涅槃の諸仏にほかならない。いまだ発心・修行・正覚・涅槃せざるには、即心是仏ではない。たとい一瞬といえども発心・修行すれば、それが即心是仏である。たとい一微塵のなかに発心・修行しても、それが即心是仏である。たとい無量の年月にわたって発心・修行しても、それが即心是仏である。たといただ一度でも発心・修行すればそれも即心是仏である。あるいは、たとい片手ほどでも発心・修行すれば、それも即心是仏である。だからといって、ながいながい間にわたって修行して仏となるのは即心是仏ではないなどというのは、いまだ即心是仏を見ざるものであり、知らざるものであり、学ばざるものである。即心是仏を説く正師にめぐり遇うことをえないのである。いうところの諸仏とは、釈迦牟尼仏である。釈迦牟尼仏はまさに即心是仏である。過去と現在と未来の諸仏はすべて、その仏となりたもう時には、かならず釈迦牟尼仏となるのである。それが即心是仏である。」正法眼蔵 杣苦心是仏」
原文「かくのごとくなるゆゑに、即心是仏不染汗即心是仏なり。諸仏・不染汗諸仏なり。しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも即心是仏なり。しかあるを長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」正法眼蔵 即心是仏