「作法これ宗旨なり」「仏祖のまもり来った修行がある。いはゆる清浄がそれである。南嶽山観音院の大慧禅師に、ある時、六祖慧能が問うていった。「ふりかえって、なお修行によらねばならぬことがあるだろうか」大慧がいった。「ないわけではありません。汚れてはいけません」六祖がいった。「その汚れないということだけが、もろもろの仏の心したまうところである。なんじもそうだ。わたしもそうだ。あるいは、天竺の祖師がたもそうであった」また、大比丘参禅威儀経」にいう。「身を浄めるとは、大小便を洗い、十指の爪を剪ることである」