「作法これ宗旨なり」「仏祖のまもり来った修行がある。いはゆる清浄がそれである。南嶽山観音院の大慧禅師に、ある時、六祖慧能が問うていった。「ふりかえって、なお修行によらねばならぬことがあるだろうか」大慧がいった。「ないわけではありません。汚れてはいけません」六祖がいった。「その汚れないということだけが、もろもろの仏の心したまうところである。なんじもそうだ。わたしもそうだ。あるいは、天竺の祖師がたもそうであった」また、大比丘参禅威儀経」にいう。「身を浄めるとは、大小便を洗い、十指の爪を剪ることである」そうそういうことで、清浄とは身心にわたることであるけれども、身を浄めるの法があり、また心を浄める法がある。いや、ただ身心を浄めるのみではなく、国土をきよめ、樹下をきよめるのである。たとい国土に塵穢なくとも、それを浄からしめるのが諸仏の念じたまうところである。仏の境涯にいたっても、なお怠らざるところである。その意味するところは、容易に測りつくしがたい。作法とはそのことである。得道とは作法にほかならない。」

原文「仏祖の護持しきたれる修証あり。いはゆる不染汗(ふぜんま)なり。南嶽山観音院大慧禅師、因六祖問、「還仮修証不」大慧云「修証不無、染汗即不得」六祖云「只是不染汗、諸仏之所護念。汝亦如是、吾亦如是、乃至西天祖師亦如是云云」大比丘三千威儀経云、「淨身者、洗大小便、剪十指爪」しかあれば、身心是不染汗なれども、淨身の法あり、淨心の法あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土樹下をもきよむるなり。国土いまだかって塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり。仏果にいたりてなお退せず。廃せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり。得道これ作法なり。」

不染汗:清浄なることの意 作法:-法に従った一挙一動をいう。