「作法これ宗旨なり」「「華厳経」淨行品にいはわく。「大便小便にあたっては、まさに願わくは衆生、よく汚穢をのぞいて、婬・怒・痴をなからしめよと。すでにして水に就くかば、まさに願わくは衆生、無上道に向かって、出世の法をえしめよと。水をもって穢をすすがば、まさに願わくは、衆生、淨忍を身にそなえて、あくまでも無垢にならんことをと」水はかならずしももと淨なるにあらず、また、もと不浄なるにもあらず。この身もかならずしももと淨なのではなく、またもと不浄なのではない。もろもろの事どももまた同じである。水に情ががあるわけでも、また情がないわけでもない。この身が有情なわけでもなく、非情なわけでもない。よろずの事もまたおなじである。それが仏世尊の説きたもうところである。そうであるから、水をもって身を きよめるわけでもなく、ただ、仏法によって仏法 をたもつためにこのことがある。それを洗浄という。それは、仏祖がしたしくその身心をもって正伝するところであり、仏祖がじきじきにその言葉をもって見聞せしめるところであり、また、仏祖がその光明をもってあらかに示したもうところである。すべて無量無辺の功徳を実現したもうところであって、身心にそのその作法がぴたりと具わるその瞬間に、たちまちにして久遠の修行が完全に成るのであり、そのゆえに修行の身心が現ずるのである。」

原文「華厳経淨行品云、「左右便利、当願衆生、蠲除(けんじょ)穢汗、無婬怒痴(むいんぬち)・。已而就水(いにじゅうすい)、当願衆生、向無上道、得出世法。以水滌穢(てきえ)、当願衆生、具足淨忍(じょうにん)、畢竟無垢」水かならずしも本淨にあらず。本不浄にあらず。身ならずしも本淨にあらず、本不浄にあらず。諸法またかくのごとし。水いまだ情非情にあらず、身いまだ情非情にあらず。諸法またかくのごとし。仏世尊の説、それかくのごとし。しかあれども水をもて身をきよむるにらあらず、仏法によりて仏法を保任するにこの儀あり、これを洗浄と称す。仏祖の一身心をしたしくして正伝するなり。仏祖の一句子をちかく見聞するなり、仏祖の一光明をあきらかに住持するなり。おほよそ無量無辺の功徳を現成せしむるなり。身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時、すなはち久遠の本行を具足円成せり。このゆゑに、修行の身心本現するなり。」

婬怒痴:貧・瞋・痴 「淨忍:淨らかにして安穏なる心境」「情・非情:情とは感情意識のあること。草き土石の類いは非情とするの意」