諸仏には厠屋があった「禅苑清規にいわく「もし洗浄せざれば、僧肖牀に坐し、三宝を冷することなかれとを得ざれ。また、人の礼拝を受くることを得ざれ」また「大小便を洗わざれば、突吉羅罪を得。また僧の淨坐具の上に坐し、および、三宝を礼することを得ざれ。たとい礼するも福徳なし」かかるがゆえに,学道修行の道場にあっては、まずこの洗浄のことを先とするがよい。三宝はどうしても礼拝しなければならない。また、人の礼拝をうけこともあるし、人を礼拝することもある。だから、仏祖の道場には必ずこの作法をととのえねばならない。それは自己のしいて為すところではなく,律儀のいうところであり、諸仏のつねの茶房であり、諸仏の常になされるところである。それはただこの世の仏たちのことのみではなく、十方の仏たちの作法であり、諸仏のつねになされるところである。それはただこの世の仏たちのことのみではなく、十方の仏たちの作法であり、浄土と穢土の仏たちのそれである。学ぶことおおからざる輩は、諸仏には厠屋の作法はなく、この世の諸仏の作法は浄土の諸仏のそれとはちがうと思うものもあるであろうが、それは仏道を学べるものではない。しるがよい。淨穢のことは出家者の滴血である。ある時は暖かであり、ある時はすさまじいものである。処゛つに厠屋があることをしらねばならない。(道元:正法眼蔵・洗浄)