諸仏には厠屋があった「十誦律」第十四にいわく、「羅睺羅にいわく、「羅睺羅沙弥は、仏の厠に宿した。仏は目を覚まし、右手をもって羅睺羅の頭をなで、この偈を説いていった。ー汝は貧窮のためではなく、また富貴を失ったからでもなく、ただ道を求めるためのゆえに出家したのである。よく苦しみを偲ぶがよい」そうとするならば、仏の道場にも厠屋があったのである。その仏の厠屋の作法は洗浄である。それを祖祖あい伝えきたって、仏祖の作法がのこっているということは、古を慕うものにとっての慶びである。会いがたきに遇えるものなのである。ましていわんや、如来は厠屋のほとりにあって羅睺羅のために法を説いておられる。かくて厠屋は、仏の説法の場の一つであったのである。その道場におけるたちい振る舞いはまさしく仏祖の正伝するところなのである。(道元:正法眼蔵・洗浄)

原文「十誦律第十四云「羅睺羅沙弥、宿仏厠。仏覚了、仏以みぎて摩羅睺羅頂、説是偈言、汝 不為貧窮、亦失富貴、但為求道故、出家応忍苦」しかあればすなはち、仏道場に厠屋あり。仏厠屋裏の威儀は洗浄なり。祖祖相伝しきたれり。仏儀のなほのこれる。慕古の慶快なり。あひがたきにあへるなり。いはんや如来かたじけなく厠屋裏にして、羅睺羅のために説法しまします。厠屋は仏転法輪の一会なり。この道場の進止これ仏祖正伝せり。」