諸仏には厠屋があった「摩訶僧祇律」第三四にいわく「厠屋は東におき、北におくことを得ざれ、まさに南におき、西におくべし。小便所もまたおなじ。」厠屋の位置は、この方角によるがよい。これも印度のもろもろの精舎の図式である。如来の現に建立したまうところである。だが、それはただ一仏のさだめ給うところではなく、また七仏の道場であり、精舎である。如来のはじめたまうことではなく、諸仏のさだめる作法である。それをあきらかにし知らないで、寺院を建立し、仏道を修行しても、誤りが多い。仏の作法がととのわずしては、とても仏の悟りを実現することはできないであろう。もし道場を建て、寺院を創めようとするならば、仏祖正伝のさだめによるがよい。嫡々つたえきたれる作法によるがよいのである。そうすれば、正嫡の正伝なるがゆえに、その功徳はそこにあつまり重なるであろう。仏祖正伝のながれを汲むものでなければ、仏法の身心を知ることはできない。仏法の身心を知らなければ、仏法者のいとなみは判らないのである。いま、大師釈迦牟尼仏世尊の仏法があまねく十方に伝わっているというのは、つまり、仏の身心が実現されているということであり、仏の身心の実現というのは、まさにそのような時にほかならない。(道元:正法眼蔵・洗浄)
原文「摩訶僧祇律第三十四云「厠屋不得在東在北、応在南在西、。小行亦如是」この方宜によるべし。これ西天竺国の諸精舎の図なり。如来現在の建立なり。しるべし、一仏の仏儀のみにあらず、七仏の道場なり。精舎なり。諸仏の道場なり、精舎なり。はじめたるにあらず、諸仏の威儀なり。これらをあきらめざらんよりさきは、寺院を草創し、仏法を修行せん。あやまりはおほく、仏威儀そなはらず、仏菩提いまだ現前せざらん。もし、道場を寺院を草創せんには、仏祖正伝の法儀によるべし。これ正嫡正伝なるがゆゑに、その功徳、あつめかさなれり。仏祖正伝の嫡嗣にあらざれば、仏法の身心いまでしらず。仏法の身心しらざれば、仏家の仏業あきらめざるなり。いま大師釈迦牟尼仏の仏法あまねく十方につたはれるといふは、仏身心の現成なり。仏身心現成の正当恁魔時、かくのごとし。」