真の導師に学べ「最高の智慧を修するの時にあたっては、よき導師を得ることが最も難い。その導師は、男女等のすがたによるにあらず。ただ大丈夫でなければならない。恁麼の人出なければならない。古人でもなく今人でもなく、ただ変幻自在にして善き知識でなければならない。それが仏祖の骨髄を得たものの面目であり、よき指導者であろう。因果に昧からず、彼我のおもいがないからである。すでに導師にめぐり遇うことをえたならば、万事をなげすて、寸陰をおしんで、ひたぶるに修行するがよい。心をもちいて修行し、心をもちいずして修行し、また心半ばにしても修行するがよい。そうすれば、頭髪のもえるを払い、足をつまだてて、待つの思いで学ことをうるであろう。そのようにすれば、もはや謗る悪魔どもにも煩わされず、断臂得髄のことも他人ごとではなくなって、いつしか自分が身心脱落の師となっているのである。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)
原文「修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうることもともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし。恁麼人なるべし。古今人にあらず。野狐精にして善知識ならん。これ得髄の面目なり、導利なるべし。不このかたは、不昧因果なり。儞我渠なるべし。すでに導師に相逢せんこのかたは、万縁をなげすてて、寸陰をすごさず、精進弁道すべし。有心にしても修行し、無心にても修行し、半心にても修行すべし。しかあれば、頭燃をはらひ、翹足(ぎょうそく)を学すべし。かくのごとくすれば、訕謗(せんぼう)の魔党にをかされず。断臂得髄の祖、さらに他ならず。脱落身心の師、すでに自なりき。}
恁麼人 :宗代の俗語をとりいれて禅の用語としたものである。「かくのごとく」「このような」といった意をもって、ひろく用いられ、更に恁麼時(そんなとき)、恁麼人(そんなひと)とももちいられた。ここでは善知識人という意。野狐精:禅僧の変幻自在なるを野狐のこころをもてる者として語るのである。善知識: 善友(ぜんぬ)と訳す。正法を説き、。仏道にえにしを結ぶ高徳他知をいう習いとするが、その高徳たちも詮ずるところは善き友であるとするところに、仏教者の世界の味わうべきものが存する。頭燃:事の急なること。翹足:あしをつまさきだてて待つの意。