至誠と信心が基本「得髄も嗣法もひとえに至誠により、信心によるものである。誠の心、信ずる心は外からくるものではなく、わが内からくるものでもない。ただまさしく法を重んじ、身を軽くするのみである。世をのがれて、道を棲家とするのである。いささかでも法より身を顧みる心のあるものには、法は伝わらず、道をうることは難しい。その法を重んずる志にもいろいろとあり、また他人のおしえによるものではなが、いま差しあたり一二の例を挙げてみよう。まず、法を重んずるには、たとい、法堂の円柱であろうと、燈籠であろうと、たとい諸仏であろうと野牛であろうと、あるいは鬼神であろうと人間であろうと、もし大法を保持し、仏祖の骨髄をえたものであれば、わが身心を床坐として、どこまでも事えたてまつるがよいのである。身心を得ることはやすい。この世のどこにも見るところである。法にめぐり遇うことはまれである。」(道元:正法眼蔵・礼拝骨髄)

原文「髄をうること、法をつたふること、必定して至誠により、信心によるなり。誠信ほかんよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。ただまさしく法をおもくし、身をかるくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること法よりもおもきには、法つたはれず、道をうることなし。その法をおもくする志気ひとつにあらず、他の教訓をまたずといへども、しばらく一二を挙拈すべし。いはく、法をおもくするは、たとひ露柱なりとも、たとひ燈籠なりとも、たとひ諸仏なりとも、たとひ野干なりとも、鬼神なりとも、男女なりとも、大法を保任し、吾髄を汝得せるあらば、身心を牀座にして、無量劫にも奉事するなり。身心はうることやすし、世界に稲麻竹葦のごとし。奉はあふことまれなり。」