智慧を尊重する「釈尊のおおせには、ー最高の智慧を説く師にめぐり遇うには、その血統をたずねてはならない。その頭容をみてはならない、またその行為を案じてはならない。ただ智慧を尊重するのゆゑをもって、日々千両の金をたてまつるがよく、最上の食をもって供養するがよく、日々朝・昼・夕に礼拝し恭敬して、いささかも憂悩の心をあらしめてはならない。そのようにすれば、智慧の道は必ず開けてくるものである。われもまた、発心よりこのかた、そのように修行して、いまは最高の智慧をうることができたのであるーとある。されば、樹も石もわがために説き、田も里もわかために説かんことを願うがよい。円柱にも法を問うてみるがよく、牆壁にも真理を聞いてみるがよい。むかし帝釈天は、野狐を師として礼拝し、法を問うたことがあるという。よって、大菩薩の称がつたわっているが、それはその手段の尊卑によるものではない。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)
原文「釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなれ、非をきらあことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆゑに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし。天華を散じて供養すべし。日日三時に礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしめることなかれ。かくのごとくすれば、煩悩の道かならずところあり。われ発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。しかあれば、若樹若石もとかましとねがひ、若田若里もとかましともとむべし。露柱に問取し、牆壁をしても参究すべし。むかし野干を師として礼拝問法する天帝釈あり。大菩薩の称つたはれり。依業の尊卑によらず。」