不聞仏法の愚痴にまどわれてはならない。「それなのに、世の中の仏法を知らざる愚かものたちは、われは大比丘であるから、年少の得法者を拝するわけにはゆかぬと思う。われは久しく修行してきたのだから、後進の得法者を拝することはできないという。あるいは、われは既に師号をもっているのだから、師号なき者を拝するわけにはゆかぬといい、あるいは法務を司るものであるから、ほかの得法の僧を拝してはならぬといい、われは僧正の官にあるのだから、俗男俗女の得法者を拝してはならぬといい、われは三賢である十聖であるから、たとい得法したからとて比丘尼などを拝すわけにはゆかないといい、あるいはのた、われは皇族の血筋をひくものであるから、たとい得法者であっても臣下の僧を拝することはできないという。そのような愚かなものたちは、いたずらに父の許をはなれて他国に流浪し、ついに仏道を見ることはできないであろう。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)

原文「しかあるに、不聞仏法の愚痴のたぐひおもはくは、われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず、われは久修練行なり、得法の晩学を拝すべからず、われは師号に署せり、師号なきを拝すべからず、われは法務司なり、得法の余僧を拝すべからず、われは僧正司なり、得法の俗男俗女を拝すべからず。われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず。われは帝胤なり、得法なりとも臣家相門を拝すべからずといふ。かくのごとくの痴人、いたずらに父国の道路に蛉跰(れいへい)するによりて、仏道を見聞せざるなり。」

三賢十聖とは、菩薩修行の五十一位のうち、十住、十行、十廻向などの位に至れる者を三賢といい、さらに十地の位にいたれるものを十聖という。いずれも菩薩修行の階位のうる段階までに至ったものである。