古仏の心術に学ぶ「むかし唐のころ、趙州真際大師は、発心して行脚に発足するらあたっていった。「たとい年七歳であろうとも、われより勝れていたならば、わたしは彼ら問おう。たとい歳百歳であろうとも、われよりも劣っていたならば、わたしは彼に教えよう」と。年七歳のものに法を問うときには、長者も礼拝しなければならない。まことに奇特の志であり、古仏の心術というものである。あるいは、道を得、法を得たる比丘尼があれば、法を求めてまなぶ比丘たちが、その説法の座につらなって礼拝し問法するというのが、去来から仏道をまなぶもののすぐれた習いである。そうすればこそ、たとうれば、渇する者の水を飲むがごとくであるというものである。」
原文「むかし唐趙州真際大師、こころをおこして発足行脚せしちなみにいふ。たとひ七歳なりとも、われよりも勝(しょう)ならばわれかれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならばわれかれををしふべし。七歳に問法せんとき、老漢礼拝すべきなり。奇夷の志気(しいき)なり、古仏の心術なり。得道得法の比丘尼出世せるとき、求法参学の比丘僧、その会(え)に投じて礼拝問法するは、参学の勝躅(しょうちょく)なり。たとへば、渇に飲(おん)にあふがごとくなるべし。」