現在の大宗国の寺院にも、比丘尼の修行しているものもあるが、もし得法したということになると、官から尼寺の住職に補する命がおりる。そうなれば、その寺に入って、法堂で説法する。その時には、住職以下衆僧がことごとく参集して、露地に立って法を聞く。その際に、問いを呈するのも比丘僧である。それが去来からのしきたりである。得法したからには、いまや真乎の古仏であるのだから、もはや昔のたれかれとして相まみえるべきではない。彼がわれに見(まみ)えるにには、新しい立場で相接すべきであり、われが彼に見えるには、今日は今日の間柄で相対さねばならぬるたとえば、正法の眼目を伝持する比丘尼は、四果・辟支仏、あるいは三賢・十聖が来って法を問うときには、その礼拝をうけるがよい。男子だからといってなんで貴かろう。虚空は虚空であり、四大は四大であり、五蘊は五蘊である。それは女人もまたおなじことで、得道はいずれも得道である。ただ、いずれにあっても、得道せるものは敬重しなければならない。それが仏道のたぐいもない法則である。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)

原文「見在大宋国の寺院に、比丘尼の掛搭(かた)せるが、もし得法の声あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまふには、即寺にて上堂す。住持以下衆僧、みな上参して立地聴法するに、問話も比丘僧なり。これ去来の規矩なり。得法せらんは、すなはち一箇の真箇なる古仏にてあれば、むかしのたれにて相見すべからず、かれわれをみるに、新条の特地に相接す。われかれをみるに、今日須入今日の相待なるべし。たとへば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏及び三賢十聖もきたりて礼拝問法せんに、比丘尼この礼拝をうくべし。男児なにをもてか貴ならん。虚空は虚空なり、四大は四大なり、五蘊は五蘊なり。女流もまたかくのごとし、得道はいづれも得道す。ただし、いづれも得法を敬重すべし。男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。」

立地:露地に田って、簡略に仏事をいとなみ、説法するの意。 新条の特地:条はこずえ。柳を詠じて「明年さらに新条の在るあり」の句かある。「新しい立場」と解す。そこに新生の人をみるべきである。今日須入今日:「今日はすべからく今日に入るべし」と読む。昨日までは師資の間柄であっても、新生の今日にあっては同等の立場で相対す」と解す。 四果:仏経を修する者の四つの段階をいう。預流果・一来果・不還果・無学果である。預流果とは、はじめて聖者の流れに預かる者・一来果とは、なお天界と人間界を往来する段階・不還果とはふたたび人間の欲界に帰りきたることのない段階・無学界とは、煩悩を断じつくしてもはや学ぶことのない聖者の段階をいう。支仏:縁覚、師なくしてただ縁を観じて悟れる者である。小乗の聖者。四大:地・水・火・風・万物の構成要素である。 五蘊:色・受・想・行・識をいう。人間の肉体および精神を構成する要素。