また、我が国では、あるいは大臣の女にして後宮になぞらうものがあり、あるいは后妃にして院号ををもちいるものがある。それらには、髪を落としたものもあり、落とさぬものもある。しかるに、名をむさぼり利を愛する僧形のものどもが、その家門に出入りして平身低頭している有様は、主従よりもなおひどく、なかには、まったく奴僕となりさがって老年におよふせものもある。小国・辺地に生まれたとはいえ、それが間違いであるとも知らぬは、あわれなことではある。天竺や唐土にはいまだかってないことで、ただ我が国だけのことである。かなしいことである。それらは、むやみに頭髪を剃って、その罪ははなはだ深いといわねばならない。それはまったく、この世の営みの夢まぼろしのこ゜゛とくなるを忘れて、女人の奴隷と成り下がったものであって、悲しまざるをえないではないか。つまらぬ世のたずきのためにも、なおそのような事をするのなら、なぜ最高の智慧のために、敬うべき得法の人を敬わないのであるか。それはつまり、法を重んずる志が浅く、法を求める志の厚からぬが故である。既に、財宝を貪るときには、女人の財宝だから、貰えぬこともあるまいと思っている。法を求めるときには、その志にまさるものがあってよいはず。もししかれば、草木も牆壁も正法をほどこし、天地のすべてのものが正法を与えてくれるのである。きっとその道理を心得るのがよい。もし真の善知識にめぐり遇うことができても、なおその志をもって求めるに到らなかったならば、法の水のうるおいに与ることはできないであろう。そこをつまびらかに考えてみるがよい。(