「さらに、結界する時には、甘露をそそいだのち、三宝を頂礼し、地を清めなどして、さて頌をとなえていう、「この世界とあまねき法界と、無為にして結して清浄なり」と。その意味するところを、ひごろ結界と称している古老たちは、はたして知っているかどうか。思うに、彼らは、はたして知っているかどうか。思うに、彼らは、結界のなかにあまねき法界がこめられているなどとは、とても知らないであろう。きっと彼らは、小乗の聖者の酒に酔うて、小さな境界を大きな世界とまちがえているにちがいあるまい。願わくは、すみやかに日頃の迷いから醒めて、諸仏の大界のあまねき世界であることを間違えないで貰いたいものである。一切の衆生がみなその教化を蒙って、済度され摂受される功徳を礼拝し恭敬するがよいのである。4これを仏道の骨髄を得たるものといわざせるはあるまい。」(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)3
原文「いはんや結界のとき、灑甘露ののち、帰命の札をはり、乃至淨界等ののち、頌云、玆界遍法界、無為結清浄。この旨趣、いまひごろ結界と称する古先老人、しりやいなや。おもふになんだち、結の中に遍法界の結せられること、しるべからざるなり。しりぬ、なんぢ声聞の酒にゐふて、小界を大界とおもふなり。ねがはくはひごろの迷酔すみやかにさめて、諸仏の大界の遍界に違越すべからず。済度摂受に一切衆生みな化をかうぶらん功徳を礼拝恭敬すべし。たれかこれを得道髄といはざらん。」