「正法の心術」「仏法を学ぶにあたり、もっとも見聞しがたいのは、正法の心術というものである。その心術は仏より仏へと相伝してきたもので、これを仏の光明といい、また仏心ともいい伝えておる。世尊在世の時から今日までには、名利を求めることを学問の目的とするかに思われる人もすくなくなかったが、それでもなお、正師の教えにめぐり遇うて、心を翻して正法を求むれば、おのづからに道を得ることができる。 いま仏道を学ぶ人々にも、またそのような病があることを知らねばならない。たとえば、初心にして学びはじめたばかりの者でも、久しく修行して練りに練った者でも、なお伝授の時機をうることがあり、得ぬこともある。また、古を慕うてならう者もあれば、古人をそしって学ばぬ輩もあろうが、もそのいずれをも愛してはならぬ、恨んでもならぬ。どうして憂えぬわけにゆこう。恨まぬわけにはまいらぬわけにはまいらぬというか。それは、貧・瞋・痴としっている者は稀なのだから、恨んではならないというのである。」
原文「学道まとき、見聞することかたきは、正法の心術なり。その心術は、仏仏相伝しきたれるものなり。これを仏光明とも、仏心とも相伝するなり。如来在世より今日にいたるまで、名利をもとむるを学道の用心とするにたるともからおほかり。しかありしも、正師のおしへにあひて、ひるがえして正法をもとむれば、おのづから得道す。いま学道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるへきなり。たとへば、初心始学にもあれ、久修練行にもあれ、伝道授業の機をうることもあり、機をえざることもあり。募古してならふ機あるべし。訕謗(せんぼう)してならはざる魔もあらん。両頭ともに愛すべからず、うらむべからず。いかにしてかうれへならん、うらみざせん。いはく、三毒を差難読としれるともがらまれなるによりて、うらみざるなり。」