「初心を忘れない」「大事なことは、はじめて仏道を求めた時の志を忘れぬことである。けだし、はじめて発心する時には、他人のために法を求めず、名利をなげすてて到るるのだから、名利を求めず、ただ一途に道を得んことを志すのであって、国王・大臣などの尊敬や供養を受けたいなどは思ってもみないことであった。それなのに、今もいうような事となるのは、もともと期するところではなく、求めるところではない。世人との面倒な関わりをもつことも期するところではないのである。しかるに、愚かなる者は、たとい道心はあっても、たちまちもとの志を忘れ、あやまって他人の供養をまち、それを仏法の功徳なりとよろこぶ。あるいは、国王・大臣の帰依をうれば、それでわが道は成れりと思う。それは仏道を学ぶ者にとっての魔障であるとしらねばならない。世人を憫むこころは忘れてはならぬけれども、世人とのかかわりを喜んではならないのである。見るがよい、仏ののたまえる言葉にも「如来の現在にもなお怨み嫉みあり」とあるのではないか。愚は賢をしらず、小人は大聖むをうらむということはこのことである。また、西の方インドの祖師がたは、しばしば外道や小乗の徒や国王などのために悩まされたことがある。それは外道たちがすぐれていたからではなく、祖師がたに深い慮りがなかったからでもない。(道元:正法眼蔵・谿声山色)

原文「いはんやはじめて仏道を欣求セ氏時のこころざしほわすれざるべし。いはく、はじめて発心するときは、他人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、ただひとすぢに得道をこころざす。かって国王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるに、今かくのごとく因縁あり。本期にあらず、所求にあらず、人天の擊縛かかはらんことを期せざるところなり。しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はゆく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、仏法の功徳いたれりとよろこぶ。国王大臣の帰依しきりなれば、わがみちの現成とおもへり。これは学道の一魔なり。あはれむこころをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。みずや、ほとけののたまわく、如来現在猶多怨嫉の金言あることを。愚の賢をしらず。小畜の大聖をあたむること、理かくのごとし。また西天の祖師、おほく外道・二乗・国王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず、祖師に遠慮なきにあらず。」