「先聖野道を踏め」「おおよそ初心のはからいは、仏道をはからうことはできない。測ってみても決して当たらないのである。だが、初心で測れないからとて、究極の境地をきわめえないわけではない。つきつめた境地の奥深いところは、初心の浅い知識では測れないだけのこと。ただすべからく仏祖先徳のあるいた道を踏もうと心掛けるがよい。その時、師をたずね道をとえば、山に攀じ、海を渡ることもできるのである。導師をたずね、教えを乞うには、まさに天より降下し、地より湧出するの趣があってしかるべきである。かくして、師に相見える時には、あるいは人が物いい、あるいは自然が物いう。それを身体で聞き、また心で聞く。(道元:正法眼蔵・谿声山色)
原文「おほよそ初心の情量は、仏道のはからうことあたはず。測量すといへども、あたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟にに究尽なきにあらず。徹地の堂奥は、初心の淺識にあらず、ただまさに先聖野道をふまんことを行履すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづね、知識をねかふには、従天降下なり、従地湧出なり。その接渠のところに。、有情に道取せしめ、無情に道取せしむに、身処にききは、心処にはく。」