「眼もって声を聴く」「いったい、耳をもって聴くは日常茶飯のことであるが、眼をもって声をきくことは、必ずしも誰にもできることではない。仏を見るにしても、自仏を見るものがあり、他仏を見るものがあり、また、大仏を見、小仏を見る。たが、大仏を見ても驚くことはなく、小部をみてもあやしむことはない。その大仏・小仏を、いまかりに山色・谿声と考えてみるもよい。そこには広長舌があり、八万偈があり、それを挙げて示せばはるかに俗を脱し、それを徹見すれば独り抜きんでるのである。それが俗言にいう「いよいよ高く、いよいよ堅し」というところ。また先仏は「天にみち地にみつ」もいった。春松に操があり、秋菊に秀気がある。すべてよき哉である。善知識がこの境地にいたった時には、まさにこの世の大師である。いまた゜その境地にいたらずして、みだりに人のために説くは世の大賊である。はる松もしらず、秋菊も見ずして、なにをもって説かんとするか。いかにして根源を裁断せんとするのであるか。」(道元:正法眼蔵・谿声山色))
原文「若将耳聴は家常の茶飯なりといへども、眼処聞声これ何必不必なり。見仏に自仏他仏を見、大仏小仏をみる。大仏にもおどろきおそれざれ、小仏にもあやしみわずらはざれ。いはゆる大仏小仏をしばらく山色谿声と認ずるものなり。これに広長舌あり、八万偈あり。挙似廻脱なり。見徹独抜なり。このゆゑに、俗いはく、弥高弥堅なり。先仏いはく、弥天弥綸なり。春松の操あり、秋菊に秀ある、即是なるのみなり。善知識この田地にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに為人の儀を存せん。人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん。なにの草料かあらん、いかが根源を裁断せん。」
何必不必:「なんぞ必ずしも必ずせんや」とよむ。自仏他仏:自仏とは自分に仏を見るのであり他仏とは他人に仏を見るのである。為人の儀:他人の為に法を説く。草料:まぐさ。