「懺悔・発露せよ」「またもし身心に懈怠があり、不信の年が生ずるようなことがあったならば、真心をも専らにして仏の前に懺悔するがよい。そうすれば、懺悔の功徳のちからがわれを救い、清浄ににしてくれるであろう。その功徳は自由自在に淨心を生み、精進を育てる力をもっているからである。一たび淨心が生ずれば、自他ひとしく一転して、その利益はあまねく人間と自然のうえにおよぶ。その懺悔の大旨をいえばーたとえいわが過去の悪業がつもりかさなって、修道の障げとなりましょうとも、もろもろの得道の仏祖に願わくは、われを愍れんで業のわざわいを免れしめたまえ、学道のさわりをなからしめたまえ。その教えの功徳を限りなき法界にあまねからしめたまえ。その愍れみを、わがうえにも布かせたまおえーと思うに、仏祖もむかしはわれらにひとしく、われらも未来は仏祖となるであろう。いま仏祖を仰ぎみれば一箇の仏祖にまします。だが、その発心の時を思えばやはり一つの発心であった筈である。そりは、あまねく愍れみをかけるに、結局のところ好都合というものであろう。」
原文「また心も尓苦も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心ををもはらして、前仏に懺悔すべし。恁麼するとき、前仏懺悔の功徳力、われをすくひて清浄ならしむ。この功徳、よく無礙の淨信・精進を生長せしむるなり。淨信一現するとき、自他おなじく転ぜられるなり。その利益、あまねく情・非情こうぶらしむ。その大旨は、願は、われたとひん過去の悪業おほくかさなりて、障道の因縁ありとも、仏道によりて得道せりし諸仏諸祖、われをあわれみて、業累を解脱せしめ、学道さはりにらしめ、その功徳法門、あまねく無尽法界に充満弥綸せらん。あはれみをわれに分布すべし。仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。仏祖を仰観すれば、一仏祖なり、発心を観想するにも一発心なるべし。あはれみを七通八達せんに得便宜なり。」
「人はその親愛する所において辟す」