「懺悔のすすめ」「そこのところを龍牙は、「過去の生においていまだ了得せずんば今すべからく了得するがよい。この生において生々の身を度しおわるがよい。古の仏も未だ悟らなかったならば今の人におなじ悟り了すれば今の人もすなわち古人である」といっておる。静かにその道理を思い究めるがよい。それはわれらもま仏となりうる保証である。そのように懺悔すれば、必ず仏祖の冥々の助けがあるものである。心におもい、身にいとなみ、口にいいあらわして、仏に白すがよい。口にいいあらわすことの力が、罪悪の根元をとかしてしまうのである。これも一種の正しい修行であり、正しい信心であり、正しい信身である。それを正しう修するときには、谿の声も谿の色も、山の色も山の声も、もな八万四千偈をおしみはしない。自己がもし名利の身心を惜しまないならば、谿も山もまたそれらを惜しまないのである。たとい谿声山色が八万四千偈を実現しようと実現しまいと、あるいはそれが夜であってもなくても、谿山の谿たることを挙げて示すちからが具わらなければ、誰か谿の声を聞き、山の色を見ることをうるであろうか。」(道元:正法眼蔵・谿声山色)
原文「このゆゑに、龍牙のいはく、「昔生未了今須了 此生度取累生身 古仏未悟同今昔 悟了今人即古人」しずかにこの因縁を参究すべし、これ証仏の承当なり。かくのごとく懺悔すれば、かならず仏祖の冥助あるなり。心念身儀発露百仏すべし。発露のちから、罪根をして鎖殞せしむるなり。これ一色の正修行にり。正信心なり。正信身なり。正修行のとき、谿声谿色・山色山声、ともに八万四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、谿山また恁麼の不惜あり。たとひ谿声山色八万四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは、夜来なりとも、谿山の谿山を挙似する尽力未便ならんは、たれかなんぢを谿声山色と見聞せん。」
「忌則多怨」(左伝)