「祖となるには身心の脱落するのみ」「しかるに、もろもろの仏祖はいまだかって教をも行をも証をも汚すことがないのであるから、教・行・証はまたもろもろの仏祖をはばむことがない。そのゆえ、仏祖の修行においては、過去・現在・未来を通じて、後にも先にも、その教・行・証を避けて通る仏もなく祖もない。また衆生が仏となり祖となる時には、これまでの仏祖が邪魔になるわけではないのであるから、いまの人もよく仏となり祖となりうる道理を四六時中の行住坐臥のうちにもよくよく考えてみるがよい。衆生が仏となり、祖となる時には、衆生を破るのでもなく、奪うのでもなく、また失うわけではない。ただ身心を脱落するのみである。」

原文「諸仏諸祖かっ教行証を染汗せしむることなきがゆゑに、教行証いまだ諸仏諸祖を罣礙することんなし。このゆゑに、仏祖をして修行せしむるに、過現当の機先機後に廻避する諸仏諸祖なし、衆生作仏祖の時節、ひごろの所有の仏祖を罣礙せずといへども、作仏祖する道理を十二時の住坐臥に、つらつら思量すべきなり。作仏祖するに衆生を破らず、うばはず、うしなふにあらず。しかあれども脱落しきたれるなり。」

「温温たる恭人はこれ徳の基なり」