「つまり善悪の因果をそのままに修行するのであって、なにも因果を動かすでもなく、なんぞ手段を講ずるでもない。かえって因果が時に及んでわれらを修行せいむるのである。かくして、その因果の真相があきらかとなってみると、それはただ莫作である、無生であり、無常である。また不昧であり、不落である。ただ身心脱落であるからである。そのように学んでいくと、諸悪は一にかかって莫作であったのかと解ってくる。その理解に助けられて、さらに諸悪は莫作だと考えが徹底し、実践もまたさだまる。まさにそこに到れば初・中・終のことごとくが諸悪莫作となってくるのであるから、そこではもはや、諸悪はなんぞ条件があって生ずるというものではなく、ただ莫作である。また諸悪はなんぞ条件があって滅するというものでもなく、ただ莫作であるだけである。もし諸悪がひとしれば、諸事もまたひとしい。しかるを、諸悪は条件があって生ずるものとのみ考えて、その条件はおのずから莫作であることに気がつかないのは、あわれむべき輩たちである。」(道元:正法眼蔵・諸悪莫作)

原文「善悪因果をして修行せしむ。いはゆる、因果を動ずるにあらず、造作するにあらず、、因果あるときはわれらをして修行せしむるなり。この因果の本来面目すでに分明なる。これ莫作なり、無生なり、無常なり、不昧なり、不落なり。脱落なるがゆゑに。かくのごとく参究するに、諸悪は一条にかって莫作なりけると現成するなり。この現成に助発せられて、諸悪莫作なりと見得徹し、坐得断するなり。正当恁麼のとき、初中後、諸悪莫作にて現成するに、諸悪は因縁生にあらず、ただ莫作なるのみなり。諸悪は因縁滅にあらず、ただ莫作なるのみなり。諸悪もし等なれば、諸法も等なり。諸悪は因縁生としりて、この因縁のおのれと莫作なるをみざるは、あはれむべきともがらにり。」

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」( 史記)