「仏種は縁より起こる」「いったい、「仏種は縁より起こる」というから、また、縁は仏種より起こるのである。諸悪はないわけではない、ただ莫作である。諸悪があるわけでもない、ただ莫作である。諸悪は空でもない、ただ莫作である。諸悪は色(現象)ではない、ただ莫作である。諸悪は「作すなかれ」でもない、ただ莫作である。たとうれば春松は無でもなく有でもない。人の造ったものではない。秋菊も有でもなく無でもない。人の作したものではない。諸仏も有にあらず無にあらず、ただ莫作である。露柱・燈籠・払子・拄杕なども、あるにあらず、なきにあらず、ただ莫作である。自己もまた有にあらず無にあらず、ただ莫作である。そのように学のが、あきらめられたる公案であり、また公案をあきらめるというものである。主体のがわから考究し、また客体のがわから工夫するのである。ではそのようであったのに、今までは、作られえないものを作っていたのかと後悔するのも、それもほかならぬ莫作の考える力というものである。しかるに、どうせ作られえない諸悪ならば、作ってもよいではないかと考えたりするのは、北にむいて南にゆうことするにおなじである。」(道元:正法眼蔵・生死)(道元:正法眼蔵・諸悪莫作)
原文「仏種従縁起なれば、縁従仏種起なり。諸悪なきにあらず、莫作なるのみなり。諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり。諸悪は空にあらず、莫作なり。諸悪は色にあらず、莫作なり。諸悪は莫作にあらず莫作なるのみなり。たとへば、春松は無にあらず有にあらず、つくらざるなり。秋菊は有にあらず無にあらず、つくらざるなり。諸仏は有にあらず無にあらず、莫作なり。露柱燈籠・払子拄杖等、有にあらず無にあらず、莫作なり。自己は有にあらず無にあらず、莫作なり。恁麼の参学は、見成せる公案なり、公案の見成なり。主より功夫し、賓より功夫す。すでに恁麼なるに、つくられざりけるをつくりけるとくやしむも、のがれず、さらにこれ莫作の功夫力なり。しかあれば、莫作にあらばつくらましと趣向するは、あゆみをきたにして越にいたらんとまたがんがごとし。」
「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う」(論語)