「奉行とは」しかるに、世界によって善を認めることが同じでないことがおおい。認定をもって善としているからである。その消息は三世諸仏の説法のことによく似ている。三世諸仏の説法はすべてやおなじあるというが、釈尊在世のころの説法は時によって異なった。また諸仏は寿命や身量はその時にまかせて,ただ無分別の法を説きたもうた。だから、信によって仏道に入った者の善と、法を理解して実践する者の善とは、はるかに相異なっているが、またけっして別の事ではない。たとえば声聞の持戒と菩薩の破戒は別のことではないといった工合である。さて、もろもろの善は何か条件があって生ずるというものでもなく、またなにかの条件があって滅するというものでもない。また、もろもろの善はもろもろの事ではあるけれども、もろもろの事がもろもろの善なのではない。条件と生滅ともろもろ善とは、それぞれ初めがあり終わりがある。そのもろもろの善を奉行するというが、ここでもそれは、自にあらず他にあらず、また自他の知るところではない。自他の知見といえば、知に自があり、他があり、また見に自があり他があるのであるから、おのおのの開かれた眼がここにあり、またかしこにある。それが奉行である。だがそのときの奉行は、たとい悟りが実現したとしても、その悟りはその時初めて成るのでもなく、またそれがいつまでも続くものでもない。ましてやそれを根本の行ということはできまい。(道元:正法眼蔵・諸悪莫作)
原文「しかあるに、世界によりて善を認ずることおなじからざる道理おなじ。認得を善とせるがゆゑに。如し。三世諸仏説法之儀式。おなじといふは、在世説法、ただ時なり。寿命身量またときに一任しきたれるがゆゑに、説無分別法なり。しかあればすなはち、信行の機の善と、法行の機の善とはるかにことなり、別法にあらざるがごとし。たとへば、声聞の持戒は菩薩の破戒なるがごとし。修善これ因縁生・因縁滅にあらず。衆善は諸法なりとてふとも、諸法は衆善にあらず。因縁と生滅と衆善は奉行なりといへども、自にあらず、自にしられず、他にあらず、他にしられず。自他の知見は、知に自あり、他あり、見の自あり、他あるがゆゑに、各各の活眼晴、それ日にもあり、月にもあり。これ奉行なり。奉行の正当恁麼時に、現成の公案ありとも、公案の始成にあらず、公案の久住にあらず、さらにこれを本行といはんや。」