「善をなすことは奉行」「善をなすことは奉行であるからとて、人の測り知るところではない。いまの奉行は、たとい開かれたる眼があってのこととしても、測らうべきことではない。事を測ろうがために眼を開いたのではない。開かれたる眼の速度は、余の事の速度とおなじであってはならない。つまるところ、もろもろの善は有でも無でもない、空でも色でもない。ただ奉行であるのみである。いずれの処、いずれの時において実現するにしても、かならず奉行である。その奉行にはかならず衆善の実現がある。その奉行の実現こそが仏者の課題であるが、だからとて、それもまた生滅のことではなく、なにかの条件によることでもない。奉行のはじめも、中ごろも、終わりもまたおなじである。すでに諸善のなかの一善が奉行せられるところには、一切世界の善が悉く奉行せられる。この善の因果の道理もまた、奉行においてさとらるべき課題である。因はさき、果はあとというではないが、因が円満して果が円満するのである。因がひとしければ事がひとしく、果がひとしければ事がひとしいのである。因があってはじめて果があるのだが、それもけっして前後ではないのである。前後などというものがあるので、念のためいっておく。(道元:正法眼蔵・諸悪莫作)
原文「作善の奉行なるといへども、測度すべきにはあらざるなり。いまの奉行、これ活眼晴なりといへども、測度にはあらず。法を測度せんために現成せるにあらず。活眼晴の測度は、余法の測度とおなじかるべからず。衆善、有・無・色・空等にあらず。ただ奉行なるのもなり。いづれのところの現成、いづれの時の現成も、かならず奉行なり。この奉行に、かならず衆善の現成あり。奉行の現成、これ公案なりといふとも、生滅にあらず、因縁にあらず。奉行の入・住・出等もまたかくのごとし。衆善の一善、すでに奉行するところに、尽法・全身・真実地等、ともに奉行せらるるなり。この善の因果、奉行の現成公案なり。因はさき、果はのちなるにあらざれども、因円満し、果は円満す。因等法等、果等法等なり・因にまたれて果感ずといへども、前後にあらず。前後等の道あるゆゑに。」