「思うに、たとい仏法のはからいで諸悪をいましめ、衆善をすすめたとしても、莫作を実現することをもうるであろう。仏教でも、たいていは、はじめて善知識をまみえて聞いたことと、究極の成果とはひとしいのである。それを頭正尾正といい、妙因妙果といい、あるいは仏因仏果という。仏教における因果は、異熟か等流かなどという問題はないのであって、仏因でなければ仏果を結ぶ子と歯でないのである。いま道林は、その道理をいったのであるから仏法者なのである。たとい諸悪が幾重にも全世界を覆い、一切を呑みつくしていようとも、それは莫作で解脱できる。衆善はもともと初・中・終の善であるから、それを奉行でその性も相も体も力もさのまま実現される。居易はまだその境地を踏んだことがないから、三歳の童子もいいうるであろうなどといった。いうべきことをいう力がないのに、そういったのである。」

原文「たとひ造作の諸悪をいましめ、たとひ造作の衆善をすすむとも、現成の莫作なるべし。おほよそ仏法は、知識のほとりにしてはじめてきくと、究竟の果上もひとしきなり。これを頭正尾正といふ。妙因妙果といひ、仏因仏果といふ。仏道の因果は異熟・等流等の論にあらざれば、仏因にあらずば、仏果を感得すべからず。道林この道理を道取するゆゑに、仏法あるなり。諸悪たとひいくかさなりの尽界に弥綸し、いくかさなりの尽法を呑却せりとね、これ莫作の解脱なり。衆善すでに初中後善にてあれば、奉行の性相体力等を如是せるなり。居易かってこの蹤跡をふまざるによりて、三歳の孩児も道取ならんといふなり。道得をまさしく道得するちからなくて、かくのごとくいふなり。あはれむべし居易、なんぢ道甚麼なねぞ、仏法いまだきかざるがゆゑに。三歳の孩児をしれりやいなや、孩児の才生せる道理をしれりやいなや。もし三歳の孩児をしらんものは、三世諸仏をしらざらんもの、いかでか三歳の孩児をしらん。対面せるはしれりとおもふことなかれ、対面せざればしらざるとおもふことなかれ。」