「古徳はいう。「汝がはじめて生まれた時、獅子吼のさだめがあった」獅子吼のさだめとは、如来の転法輪のしごと、つまり説法である。また古徳はいう。「生死去来、それが人間の真実体である。」とするならば、人間の真実体をあきらかにし、獅子吼のさだめを果たすことは、まことに一大事といわねばならぬ。けっしてやさしいことであろうはずはない。そのゆえに、三歳の童子の言動をあきらめることも、また到って大事なこととなねのである。それは三世の諸仏のおなじではないから、居易はおろかにも、三歳の童子のことばに耳を傾けたこともなく、そんなこともあろうかと疑ってみたこともなく、かくてあのようにいったのである。道林が物しう声は雷よりもすざましかったはずだが、それも耳に入らなかった。いい得ざるところを語るには、三歳の童子がかえっていい得るのだともいった。だが彼は、その童子の獅子吼をもきかず、この禅師の説法にも躓いてしまった。」(道元:正法眼蔵・諸悪莫作)

原文「古徳いはく、「なんぢがきじめて生下せりしとき、すなはち獅子吼の分あり」獅子吼の分とは、にょらい転法輪の功徳なり。転法理難なり。また古徳いはく「生死去来、真実体なり」しかあれば、真実体をあきらめ、獅子吼の功徳あらん。まことに一大事なるべし、たやすかるべからず。かるがゆゑに、三歳孩児の因縁行履あきらめんとするに、さらに大因縁なり。それ三世の諸仏の行履因縁と、同不同あるがゆゑに、居易おろかにして、三歳利孩児の道得かってきかざれば、あるらんとだにも疑著せずして、恁麼道取するなり。道林の道声の雷よりも顕赫なるをきかず。道不得をいはんとしては、三歳孩児還道得といふ。これ孩児の獅子吼をもきかず、禅師の転法輪をも蹉過するなり。」