「それでも禅師は、彼への憫れみを休めることができず、重ねていったのである。「たとい三歳の童子にいいえようとも八十の老翁も行じえまい」そのいうところの意は、三歳の童子にしていいうることばがある。それをよくよく研究してみるがよいということであり、また、八十の老翁にして行じえない実践がある。それをよくよく思いめぐらしてみるがよいということである。童子のことばは汝に一任する。だが、童子に一任するというのではないぞということである。老翁の行じえないことも汝に一任する。だが、老翁に一任するというのではないぞというのである。仏法のことはすべて、そのように考え、そのように説き、そのように受領するのが道理というものである。」(道元:正法眼蔵・諸悪莫作)

原文「禅師あはれみをやむるにあたはず、かさねていふしなり、三歳の孩児はたとひ道得なりとも、八十の老翁に行不得ならんと、いふこころは、三歳の孩児に道得のことばあり、これをよくよく参究すべし。八十の老翁に行不得の道あり、よくよく功夫すべし。孩児の道得はなんぢに一任す。しかあれども孩児に一任せず。老翁の行不得はなんぢに一任す。しかあれども老翁に一任せずといひしなり。仏法はかくのごとく弁取し、説取し、宗取するを道理とせり。」

 宗取とは宗はたっとぶもしくは旨とするの意。奉じていただくという。