「存在と時間の問題「古仏はいった。「ある時は高々たる峰頂に立ち、ある時は深々たる海底を行く。ある時は三面・八臂、ある時は丈六・八尺。ある時は拄杖・払子。ある時は露柱・燈籠。ある時は張三・李四。ある時は大地・虚空」ここに、「ある時」という。それはすでに時があるもの(有)であることを語っている。「ある」ものはすべて時なのである。一丈六尺の金身の仏も時である。時であるがゆえに、時の装いとして光明がある。いまの十二時について学ぶがよい。三面八臂の仏も時である。時であるからして、いまの十二時と異なるところはなかろう。十二時の長さ短さはまだ量ってみなくても、やはり十二時という。その去りかつ来ることが明らかであるから、誰もそれを疑わないのである。疑をないからとて、知っているわけではない。人はもともと、知らないことをただあれこれと疑ってみるだけで、それもいっこう定まるところがない。だから、以前の疑問がかならずしも今の疑問とおなじわけでもない。つまり、疑うこともまたしばらく時であるということである。」(道元:正法眼蔵・有時)

原文「古仏言、有時高高峯頂立、有時深深海底行。有時三頭 八臂、有時丈六八尺。有時拄杖払子、有時露柱燈籠。有時張三李四、有時大地虚空。はゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。古来の方跡あきらかなるによりて、人これを疑著せず。疑著せざれども、しれるにあらず。衆生もとよりしらざる毎物毎時を擬著すること一定せざるがゆゑに擬著する前提、かならずしもいまの疑著に符号することなし。ただ擬著しばらく時なるのみなり。」