「現象や草木のひとつひとつがそれぞれの全世界をもっている」「そのような道理であるから大地のいたるところに、さまざまな現象があり、いろいろの草木があるが、その現象や草木のひとつひとつがそれぞれの全世界をもっていることをまなばなければならない。そのように思いめぐらしてみるのが修行の第一歩である。そして、かの境地に到達してみると、そこにもまたさまざまな現象があり、いろいろの草木がある。そのなかには、わかる現象もわからない現象もあるし、また、わからない草木もわかる草木もある。だが、どこまでいっても、そのような時ばかりであるのだから、ある時はすべての時である。ある草木も、ある現象も、みな時である。そして、それぞれの時に、すべての存在、すべての世界がこめられているのである。ときには、いまの時にもれる存在や世界があるかないかと考えてみるのもよかろう。」

原文「恁麼の道理なるがゆゑに、尽地の万象百草り、一草一象おのおのの尽地にあることを参学すべし。かくのこ゜とくの往来は、修行の発足なり。到恁麼の田地のとき、すなはち一草一象なり。会象不会象なり、会草不会草なり。正当恁麼時のみなるがゆゑに、有時まな尽時なり。有草有象ともに時なの。時時の時に尽有尽界あるなり。しばらくいまの時にもれたる尽有尽界あるなり。しばらくいま時にもれたる尽有尽界ありやなしやと観想すべし。」

有:仏今日において「有」とは存在という意。その存在を時に冠して有時というがゆえに、あるいは「時すでに有なり」と説き、あるいは「有はみな時なり」と語っているそこから存在と時間の問題を語っている。