「時とはもはや飛び去るものとのみ考えるべきではない」「されなのに、まだ仏法をまなばぬ凡夫のころには、たいてい、あね時ということばを聞けば、ある時には三面・八臂であったとか、ある時には一丈六尺、もしくは八尺あったといった工合に思う。、それは、例うれば、河をすぎ山をすぎたといったようなものである。たとえその山河はあったとしても、いまはもうその山河を越えきたって、われはすでに玉殿朱楼のなかにあり、山河とわれとは天と地ほどのへだたりがあると思う。だがしかし、事の道理はけっしてただそれだけではないのである。いまもいうとおり、山をのぼり、河をわたった時に、われがあったのである。そのわれには時があるであろう。さのわれはすでにここに存する。とするならば、その時は去ることができない。もしも時が去来する作用を保っているとしても、なおわれにある時の「いま」がある。それが有時というものである。かの山をのぼり河をわたった時は、この玉殿朱楼の時を呑み去り、また吐き出すのであろうか。」

原文「しあるを、仏法をならはざる凡夫の時節にあらゆる見解は、有時のことばをきくにおもはく、あるときは三頭八臂となれりき、あるときは丈六八尺となれりき、たとへば、河をすぎ山をすぎしがごとくなりと。いまはその山河たとひあるらめども、われすぎきたりて、しまは玉殿朱楼に処せり。山河とわれと、天と地となりとおもふ。しかあれども、道理この一条のみにあらず。いはゆる、山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし、われすでにあり、時さるべからず。時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある。これ有時なり。彼の上山渡河の時、この玉殿朱楼の時を呑却せざらんや、吐却せざらんや。」

有時の而今;而今は「今」というの意。有時の而今とは、ある時にしてしかも「いま」なる時という意か。