「時は去らず」「三面・八臂はきのうの時であった。丈六・八尺は今日の時であった。だが昨日のことも今日のことも、真一文字の山のなかに入りきたって、いま千峰万峰を見渡している。その時はすでに去ったわけではないのである。三面・八臂もわがある時として過ぎ去った。だが、それは彼方にあるようであるが、また「いま」なのである。丈六・八尺もまたわがある時として経過した。だが。それも彼方に過ぎ去ったようであるが、また「いま」なのである。とするならば、松も時であり、竹も時である。時は飛び去るとのみ心得てはならない。飛び去るのが時の性質とのみ学んではならない。もし時が飛び去るものとのみすれば、そこに隙間がでてくるであろう。「ある時」ということばの道理にまだめぐり遇えないのは、時はただ過ぎゆくものとのみ学んでいるからである。」(道元:正法眼蔵・有時)

原文「三頭八臂はきのふの時なり、丈六八尺はけふの時なり、。しかあれども、その昨今の道理、ただこれ山の中に直入して、千峯万峯をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂もすなわちわが有時にて一経す、彼処にあるににたれども而今なり。しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解会すべからす。飛は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば、間隙ありぬべし。有時の道を経聞せざるは、すぎぬるとのみ学するによりてなり。」