「事のありようの活潑々地としているのが時である。」「たとえば、いまこの世の中で、時に配して午・羊などというのも、また物のありようをもって時の上り下りにあてている。子(ねずみ)も時であり、寅も時である。、そして、衆生も時であり、仏もまた時である。衆生が仏になる時には、三面・八臂にして全世界を証り、あるいは、丈六の金身となって全世界をきわめつくすのである。そもそも、全世界をもって全世界を究めつくすのが究尽ということであり、丈六の金身となって丈六の金身を証しするのが、発心・修行・正覚・涅槃というものである。さこには存在があり、また時間がある。ただ、あらゆる時間をあらゆる存在として究めつくすだけであって、もはや剰すところはない。剰すところがあっては、まだ存在についても時間についても、究め尽くしたとはいえないのである。だが、たとい間違った思うような段階があっても、それもまた一つの「ありよう」である。さらに存在の道理にうちまかせてゆけば、その間違いに気が付いた前後をも含めて、それもまた「ある時」のありようと知られる。事のありようの活潑々地としているのが、つまりある時なのである。それを有だ無だと騒ぎたてることはいらぬことである。」
原文「いま世界に排列せるむまひつじをあらしむるも、住法位の恁麼なる昇降上下なり。ねずみも時なり。とらも時なり。生も時なり。仏も説きなり。この時、三頭吉臂にて尽界を証し、丈六金身にて尽界を証す。それ尽界をもて尽界するを、究尽するとはいふなり。丈六金身をもて丈六金身するを、発心・修行・菩提・涅槃とする、すなしち有なり、時なり。尽時を尽有と究尽するのみ、さらに剰法なし。剰法これ剰法なるがゆゑに、たとひ半究尽の有時も、半有時の究尽なり。たとひ蹉過すと形段も有なり。さらにかれにまかすれば、蹉過の現成する前後ながら、有時の住位なり。住法位の活潑々地なる、これ有時なり。無と動著すべからず、有徒強為すべからず。」