「また、時は一向に過ぎゆくものとのみ考えて、そのいまだ到らざるを理解しないものがある。理解もまた時であるけれども、時をまてば理解が生まれてくるわけでもない。そこで、時はただ去来するものとのみ心得て、ある時とは物のありよう事のありようだと見透す人はいない。それではとても悟りの難関を突破する時はありえない。また、たとい存在のありように気が付いても、誰がその所得を表現することができようか。たとえ「これだ」というところを得てすでに久しくとも、なお、まだ、いかにしてその面目を現すべきかを模索している者ばかりである。だからといって、凡夫のいう「ある時」に打ちまかせてしまえば、正覚も涅槃も、わずかに去来のすがたのある時のこととなってしまう。」(道元:正法眼蔵・有時)
原文「時は一向にすぐるとのみ計功して、未到と解会せず。解会は時なりといへども、他にひかるる縁なし。去来と認じて、住位の有時と見徹せる皮袋なし。いはんや、透関の時あらんや。たとひ住位を認ずとも、たれか既得恁麼の保任を道得せん。たとひ恁麼と道得せることひさしきを、いまだ面目現前を模索せざるなし。凡夫の有時なるに一任すれば、菩提涅槃もわづかに去来の相のみなる有時なり。」
透関とは関所をとおる。さとるとは、その関所をとおり抜けねばならぬのである。