「思うに、経めぐり来るといえば、風の吹き来たり、雨の降り去るように思うであろうが、そんなふうに考えるべきではない。この世界はすべて、変転せぬものはなく、去来せざるものはなく、みな経めぐり来るのである。そのありようは、たとえば春のようなものである。春にはいろいろの様相がある。それを経めぐるというのである。春のほかには何者ねないのに、ただ春がめぐり来るというのである。たとえていえば、春の推移はかならず春を経へきたるものである。春の移りゆきが春ではないが、それは春の推移であるから、経めぐり来って、いま春の時にあたって、春が実現するのである。つまびからに思いいたり、思い去るがよい。その推移経過を語るにあたって、下界の対象はこれを外にして、別になにか経めぐるものがあり、それが幾世界を過ぎゆき、幾歳月を経めぐり渡るように思うのは、なお仏道を学に専一ならぬからである。(道元:正法眼蔵・有時)
原文「経歴といふは、風雨の東西するがごとく学しきたるべからず。尽界は不道転なるにあらず。不進退なるにあらず、経歴なり。経歴は、たとへば春のごとし。春に許多般の様子あり。これを経歴といふ。外物なきに経歴すると参学すべし。たとへば、春の経歴はかならず春を経歴するなり。経歴は春らあらざれども、春の経歴なるんゆゑに、経歴いま春の時に成道せり。審細に参来参去すべし。経歴をいふに、境は外頭にして、能経歴の法は、東にむきて百千世界をゆきすぎて、百千万劫をふるとおもふは、仏道の参学、これのみを専一にせざるなり。」