意も句もまた有時「葉県帰省禅師は、臨済の流れを汲み、首山省念の法嗣である。ある時、衆に示していった。「ある時は意到りて句到らず ある時は句いたりて意いたらず ある時は意と句ふたつつながり到り ある時は意と句とともに到らず」思うに意も句もともにある時であり、到るも到らぬねまたある時である。到れる時がまだ了らないのに、また到らぬ時がくるのである。またいわば、意驢であって、句は馬である。あるいは、馬を句とし、驢を意としてもよい。到るとしいのは来るのではない。到らぬというはまだ来ないというものである。ある時というのはそのようなのである。(道元:正法眼蔵・有時)

原文「葉県の帰省禅師は、臨済の法孫なり、首山の嫡嗣なり。あるとき、大衆にしめしていはく、「有時意到句不到 有時句到意不到 有時意句両倶到 有時意句倶不到」意句ともに有時なり、到不到ともに有時なり。到時未了なりといへども不到時来なり。意は驢なり、句は馬なり。馬を句とし、驢を意とせり。到それ来にあらず。不到これ未にあらず。有時かくのごとくなり。ろ