「到とは」「また、到は到にさしさわるが、不到にはさしさわらない。不到は不到にさし障るけれども、到ににはすこしもさし障らない。あるいはまた、意は意をさえぎって意を見、句は句をさえぎって句を見、礙すなわちさえぎるとは礙をさえぎって礙をみる。つまり、礙とは礙を礙するのであり、それが時なのである。いったい、礙とは、他の事について用いられることばのようであるが、実は他のことをさえぎる礙というものがあるわけではない。いをば、それは、わが人に逢うのであり、人が人に逢うのであり、われがわれに逢うのであり、出が出に逢うのである。それもまた、もし時をえなかったならば、そうはいかなはいかない。」(道元:正法眼蔵・有時)

原文「到は到に罜礙せられて不到に罜礙せられず、不到は不到に罜礙せられて到に罜礙られず。意は意をさへ、意をみる。句は句をさへ、句をみる。礙は礙をさへ、礙をみる。礙は礙を礙するなり、これ時なり。礙は他法に使得せらるといへども、他法を礙する礙いまだあらざるなり。我逢人なり。人逢人なり。我逢我なり。出逢出なり。これもし時をえざるには、恁麼ならざるなり。」