「なお、また、これまでの長老たちがみなそういっておるからとて、さらにいい得るところんがないわけではあるまい。たとえば、「意と句がなかば到るもまたある時、意と句がなかば到らざるもまた時あるなり」とそのように言ってみるのもよいであろう。また、あるいは、「彼をして眉を揚げ目をまばたかしむるもまた半ばのある時であり、彼をして眉を揚げ目を瞬かしむるもまたある時に似ている。彼をして眉を揚げ目をまぱたかしめざるもまたある時にさも似たるかな」とそのように学び来り学び去り、あるいは思い到たらざるも、またある時の時というものである。」(道元:正法有時 仁治元年冬のはじめの日、興聖寺にて記す。 寛元元年夏安居これを書写す。懐奘)

原文「向来の尊宿ともに恁麼いふとも、そらに道取すべきところなからんや。いふべし、意句半到也有時、意句半不到也有時。かくのごとくの参究あるべきなり。教伊揚げ眉瞬目也半有時、教伊揚げ眉瞬目也錯錯有時。恁麼のごとく参来参去、参到参不到する、有時の時なり。」