「仏の教化のおよぶところには、いずれの国とても袈裟のない筈はあるまい。とはいえ、嫡子より嫡子へとまのあたりに授受して、仏の袈裟を伝えきたったものは、ただひとり嵩山初祖のみである。傍系のものには仏の袈裟は授けられない。第二十七の祖の傍系、跋陀婆籮菩薩の伝うるところは僧肇におよんでいるが、仏の袈裟の伝授はない。また、中国の第四祖道信大師は、牛頭山の法融を導いたけれども、仏の袈裟は伝えなかった。だから請嫡の相承はなくとも、如来の正法はけっしてその功徳がないわけではなく、千古万古にわたってその利益は広大である。だが、正嫡の相承があるのはまた、相承のないのとおなじであろうはずはない。されば、人がもし袈裟を受持するならば、仏祖の相つたえきたった正伝のものを伝え受けるがよい.印度や中国では、正法・像法のころには、在家もまた袈裟を受持したものである。いま仏土を遠くはなれた辺土の末法時におよんでは、髭髪を剃って仏弟子と称する者さえも袈裟を受持しない。それを受持ずき者と信ぜず、知らず、思い定めないとは

 、まったく悲しむべきことである。ましてや、なんとかしてか、その材料・色彩・寸法を知ろうか。また、その着用の法をわきまえようか。」(道元:正法眼蔵・生袈裟功徳)

原文「仏化のおよぶところ、三千界のいづれのところか袈裟ならん。しかありといえども、嫡嫡面授の仏袈裟を正伝せるは、ただひとり嵩嶽の嚢祖のみなり。旁出は仏袈裟をそづけられず。二十七祖の旁出跋陀婆籮菩薩の伝、まさに肇法師におよぶちいへども、仏袈裟の正伝なし。震旦の四祖大師、牛頭山の法融禅師をわたすといへども、仏袈裟を正伝せず。しかあればすなはち、正嫡の相承なしといへども、如来の正法、その功徳むなしからず、千古万古みな利益広大な。正嫡相承せらんは相承なきとひとしかるべからず。しかあればすなはち、人天もし袈裟を受持せんは、仏祖相伝の正伝を伝受すべし。印度・震旦・生死)正法・像法のときは、在家なほ袈裟を受持す。いま遠方辺土の澆季には、剃除髭髪して仏弟子と称する、袈裟を受持せず。いまだ受持すべきと信ぜず、しらず、あきらめず、かなしむべし。いはんや体色量をしらんや。いはんや著用の法をしらんや。」