「この仏衣と仏法のことは、とうぜんながら、仏の正法を伝える祖師でなくては判らない。余輩のいまだ知らざるところ、明らかになし得ぬところであろう。したがって、諸仏のあとを欣い求めるならば、これを欣い楽しむがよい。たとい百千万年ののちたりとも、この正伝を正伝とすべきである。これこそ仏法であって、その験はまさにあらたかであろう。それは、乳に水を混ぜるようなものではなく、太子が帝位をつぐようなものである。水を割った乳だって、乳がほしい時には、それしかなければ、それを用いるであろう。たとい水を割らなくとも、代わりに油を用いる訳にはゆかない。あるいは酒を用いる訳にはいかない.漆を用いるわけにもいかない。あるいは酒を用いることもできまい。この正伝もまたおなじである。たとい凡庸の師であっても正伝さえあれば、乳として用いることができよう。ましてや、仏から仏、祖から祖へと正伝されたものは、まさに太子の即位にも比すべきである。俗言にもなお「先王の法服にあらざれば服せず」という。仏子たるものは、なにとかして、仏衣にあらぬものを着けようぞ。」(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)

原文「この仏衣仏法の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざれば、余輩いまだあきらめず、しらず、諸仏のあとを欣求すべくば、まさにこれを欣楽(ごんぎょう)すべし。たとひ百千万世ののちも、この正伝を正伝とすべし。これ仏法なるべし、証験まさにあらたならん。 水を乳にいるるに相似すべからず、皇太子の帝位に即位するがごとし。かの号水の乳なりとも、乳をもちゐんときは、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべからず。たとひ水を合せずとも、あぶらをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。この正伝もかくのごとくならん。たとい凡師の庸流なりとも、正伝あらんは、用乳のよろしきときなるべし。いはんや仏仏祖祖の正伝は、皇太子の即位のごとくなるなり。俗なほいはく、先王の法服にあらざれば服せずと。仏子いづくんぞ仏衣にあらざらんを著せん。」