「とするならば、いま発心(ほっしん)する人々は、袈裟を受持すねならば正伝の袈裟を受持するがよい。あらたに工夫した新案の袈裟などは受持すべきではない。正伝(しょうでん)の袈裟とは、達磨・慧能(えのう)と伝えきたもの、如来の嫡子から嫡子へと相承(そうじょう)してきたもので、その間に一代も欠けてはいない。その代々の法嗣(ほうし)が着用してきたものが、正伝の袈裟というものである。唐土の新作は正伝ではない。古より今にいたるまで、西の方からやってきた僧たちが着する袈裟も、みな仏祖正伝のそれと同じである。一人として、いま律宗のやから唐土であらたに制するような袈裟を着けている者はない。そこの事情にくらい者は律宗の袈裟を信じもしよう。だが、その事情にあかるい者は、抛(な)げ捨ててしまう。」(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「しかあればすなはち、いま発心のともがら、袈裟を受持すべくば、正伝の袈裟を受持すべし、今案の新作袈裟を受持すべからず。正伝の袈裟といふは、少林・曹谿正伝しきれる。如来の嫡嫡相承なり、一代の虧闕(きけつ)なし。それ法子法孫の著しきたれる。せい正伝袈裟なり、唐土の新作は正伝にあせらず、いま古今に、西天よりきたれる僧徒の諸所著の袈裟、みな仏祖正伝の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の律学のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。くらきともがら、律宗の袈裟を信ず、あきらかなるものは抛却(ほうきゃく)するなり。」