「一句一偈を身心にとどめても、それがとこしえの種子(しゆうじ)となって、ついに最高の智慧にいたる。一法一善を身心にとどめても、またそうであろう。心におもうところは刻々に生じては滅し、とどまるところを知らない。この身もまた時々(じじ)に生滅して住(とど)まるところはないけれども、修するところの功徳は必ずや熟する時がある。袈裟もまた人為にあらず、自然でもなく、ここに存りかしこに存りというべきものでなく、ただ仏と仏とのみよく知るところであるけれども、それを受持する仏教者は、その功徳を成就し、その至極(しごく)を究めることができるのである。(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「一句一偈を身心に祖面、長功光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。心念も刹那生滅し、無所在なり、身体も刹那生滅し、無所在なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟もまた作にあらず無作にあらず、有所在にあらず無所在にあらず唯仏与仏の究竟するところ なりといへども、受持する行者、その所得の功徳かならず成就するなり、かならず究竟するなり。」
「作・無作」作は自作、自然のままならず、人為の加わること。有意ともいう。無作は無為にして自然のままなること。