「もし宿善のしからしめるところでなかったならば、一生、二生、乃至はかぎりない生を経めぐっても、なお、袈裟をみることも、袈裟を着ることも、あるいはけさを信受し、袈裟を知解することもできまい。いま中国や日本においても、袈裟を身につける巡り合わせに遇うものがあり、亦遇いえぬものもある。それは貴賤によるにあらず、賢愚によるらにあらず、ただ宿善によると考えるのほかはなす。とするならば袈裟を受持する者はその宿善をよろこぶががよく、さすれば、功を積み徳を重ねるであろうことは疑いの余地もない。いまだ受持することをえぬ者は、受持せんことを願うがよく、いそぎ今生においてその種子をおろさんことを努るがよい。もしもなにかの障りがあって、どうしても受持すめることをえにい者は、諸仏・如来、もしくは仏・法・僧の三宝のまえに、懺悔のこころをおこし、懺悔のいとなみをなすがよい。(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「もし宿善なきものは、一生二生、乃至無量生を経歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦国・日本国をみるに、袈裟をひとたび身体に著することうるものあり、えざるものあり。貴賤によらず、愚智によらず、はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。しかありばすなはち、袈裟を受持せんは、宿善よろこぶべし。積功累徳うたがふべからず。いまだいざらんはねがふべし、今生いそぎ、そのはじめて下種せんことをいとなむべし。さはりありて受持せんことをえざらんものは、諸仏如来・仏法僧の三宝に懺悔すべし。」