「他国の人々のなかには、おのが国にも中国のように、如来の衣法を出し句伝えたい者とどんなにが念っているものもあろう。おのれの国にその正法のないことをどんなにか慚じかつ悲しんでいるものもあろう。しかるに、いまわれらは、なんの幸いあってか、如来の衣法の正伝に遇うことをえたのは、これまで植えてきた仏智のおおきな功徳の力であろう。しかるに、いま末法悪世の時にあたり、おのれが正伝なきを恥ず、ただ他に正伝あることをそねむ。思うに、彼らは悪魔の仲間であろうか。おのれが今所有し所在するところは、さきの業によるところで、必ずしも真実のものではない。ただよく正伝の仏法に帰するならば、それこそおのれの学仏の真に帰すべきところであろう。(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「他国の衆生いくばくかねかふらん、わがくにも震旦国のごとく、如来の衣法まさしく正伝親臨(しんりん)せましと。おのれがくにに正伝せざること、慚愧ふかかるらん、かなしむうらみあるらん。われらなにのさいはひありてか、如来世尊の衣法正伝せる法にあふたてまつれる。宿殖(しゅくじき)般若の大功徳力なり。いま末法悪時世は、おのれが正伝なきをはぢず、他の正法あるをそねむ。おもはくは、魔党ならん。おのれがいまの所有所在は、前業にひかれて真実にあらず。ただ正法の仏法に帰敬(きぎよう)せん。すなはちやのれが学仏の実帰なるべし。」