「また、小乗の教師のなかには、化糸の切をなすものがあるが、根拠はないであろう。大乗の人は笑うであろう。何処に化糸でないものがあろうか。なんじら、化は効く耳はあっても、化を見る目はないのか。しるがよい、糞掃の布をひろうなかには、絹に似た綿布もあろうし、綿布に似た絹もあろう。土地の風俗はさまざまであって、その織り方もいろいろと異なり、肉眼では容易にわかりにくい。そういうものを拾ったならば、絹だ綿布だと論ずへきではあるまい。ただ糞掃だというがよい。たとい人や神が身をやつして糞掃となったとしても、それはもはや生きものではあるまい。ただ糞掃であろう。たとい松や菊が糞掃となったとしても、もはやそれは植物ではあるまい。ただ、糞掃衣であろう。糞掃衣とは、絹にあらず綿布にあらず、また金銀・珠玉にあらざる道理が受け取れた時、そのとき糞掃ということが本当に解るのである。絹だ綿だという考えが脱け切れなければ、糞掃のことはまだ少しも解っていんいのである。」
原文「小乗教師また化絲の説あり。よるところなかるべし、大乗人わらふべし、いづれか化絲にあらざらん。なんぢ化をきくみみを信ずとも、化をみる目をうたがふ。しるべし、糞掃をひろふなかに、絹に相似なる布あらん、布に相似なる絹あらん。土俗万差にして、造化はすりがたし、肉眼のよくしるところにあらず。かくのごとくのものをえたらん。絹・布と論ずべからず、糞掃と称すべし。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも有情ならじ、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。糞掃の絹・布にあらず、金銀珠玉にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。絹・布の見解いまだ脱落せざれば糞掃也未見在せり。」