「われらは出家し、受戒するにあたり、この身心もこの世界も、たちまちにして転ずることをよく知っているが、ただ愚蒙のやからは、それを知らないだけである。諸仏の常法は、ひとり商那和修尊者や蓮華色比丘尼のうえにおこなわれて、われらの上にはおこなわれないものではない。われらもまた、わが分にしたがって利益(l\りやく)を受けることは疑うべからざるところである。そのような道理は、はっきりと思いめぐらして学んでおくんがよい。受戒にあたって仏は、「来れ比丘よ」と仰せられて戒を授けたまう。その受戒の身にまとう袈裟は、かならずしも綿でもなく、また絹でもない。仏の教化は思議(しぎ)しがたく、衣のなかの宝樹はただ沙(すな)を算(かぞ)える者の算えうるところではない。」(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「われら出家受戒のとき、身心依正(えしょう)すみやかに転ずる道理あきらかなれど、愚蒙にしてただしらざるのみなり。諸仏の常法、ひとり和修・鮮白に加して、われらにかせざることなきなり。随分り利益、うたがふべからざるなり。かくのごとくの道理、あきらかに功夫参学すべし。善来得戒の披体の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず。仏化難思なり、衣裏の宝樹は算沙の所能にあらず。」